七福蕎麦で会おう

自由を愛する自由人の音楽、小説といった創作やレトロゲームへの愛を綴るブログ。

他人に与えるとは、

自意識過剰を分析している内に一つの分かった事がある。

それは拗らせていると自分の事しか考えていないということだ。

他人の目が気になる。嫌われたくない。
社会と自分のギャップ、肥大した自己愛を貶めたくない自尊心。

……恥ずかしいくらい自分本位な考えしかしていなかった。


では、他者のことを考え、他者のために出来ることは何だろうか?

それは与えることだと思う。

だが、一体何を与えれば良いのか?

自己犠牲なんて大仰なものは必要ない。

只小さな世界を保つ程度でいい筈だ。

自分の周りの人はどんな恩恵を社会に与えているのか。
分析してみる価値はありそうだ。

社会とは、そこにあるもの

最近読了した一冊。

お笑い芸人のオードリー若林さんの自意識拗らせ系エッセイ本なのですが、同じく自意識拗らせ系な私にとっては他人事で済ませられない本でした(笑)
とても面白かったですよ。


しかしその本の中の、

「社会がぼくらの邪魔をしているんじゃないんだよね。ぼくらが社会の邪魔をしているんだよね。社会はそこにあるだけだから」

という台詞。
本書ではそれに対する若林さんの回答が書かれているのだが、僕にはそれがどうにも引っ掛かって喉を通らない。

いや、正論過ぎてそのまま呑み込むことが出来ないでいるだけなのだが。

ここでは社会の一つのとして会社や組織としましょう。

ドストエフスキーの研究で著名な山城むつみ先生の著書の中に、ドストエフスキー作品の登場人物像における性質の中に「ラズノグラーシェ(異和)」というものがあります。
対人における同調(ソグラーシェ)、不和(ニェソグラーシェ)と異なる性質で、「同調により不和が生じる」ことを差します。
同調のために言葉と精神が乖離する。そのために歪みが生じてしまう心理を「ラズノグラーシェ」と呼んでいます。

口下手で自意識を拗らせた身には社会に馴染むには身を切ってその形式に迎合する以外に方法を知りません。
八方美人にスマートな対応が出来たなら、初めからこんな悩みは生まれないでしょう。

そんな私はただ黙々と、仕事を人一倍こなす以外に社会に認められる術はないのだと感じています。

だが、仕事において円滑な対人関係が最重要事項なのか?そんなことはないと断言は出来ます。

しかし、構築済の組織の中にあって、既に完成された和の中に紛れ込む異和に邪魔者以外の役割を定めることが出来るでしょうか。


そんな疎外感と自身の組織の中での存在意義を疑わずにはいられない今日この頃なのでした。

……果たしてエルドラドはあるのだろうか?

【Amazonプライムミュージックで聴ける極上クラシック】シュワントナー:打楽器協奏曲

 

Chasing Light

Chasing Light

 

 今回は少し変化球な選曲。

 

ジョセフ・シュワントナー:打楽器協奏曲

クリストファー・ラム(独奏打楽器)/ジャンカルロ・ゲレーロ(指揮)/ナッシュヴィル交響楽団

 

現代アメリカの作曲家で、殊に『…そしてどこにも山の姿はない』で有名なシュワントナー。

日本では吹奏楽の作曲家としての知名度が圧倒的ですが、管弦楽作品も多々リリースされています。

 

その中で私イチ押しが打楽器協奏曲。

シュワントナー作品は点描的な音使いと研ぎ澄まされたハーモニー。そして打楽器群とオーケストラによるダイナミックな音響が特徴的であると思いますが、この協奏曲はそれらのエッセンスが最大限に発揮された作品です。(きらきら、どこどこ、がっしゃーん。)

数少ない打楽器協奏曲の中でも指折りの名曲ですよ。

 

この盤には『朝の抱擁』、『光を追いながら』の二つの管弦楽作品も録音されています。どちらもシュワントナー節満載の素晴らしい作品です。(あくまでも現代音楽の括りですが。)

 

 

 因みに打楽器協奏曲は他にもいくつか録音があります。

※プライムミュージックで視聴できません。

The Music Of Joseph Schwantner / Slatkin, Glennie, National SO, et al

The Music Of Joseph Schwantner / Slatkin, Glennie, National SO, et al

  • アーティスト: Joseph Schwantner,Leonard Slatkin,Vernon Jordan,Washington National Symphony Orchestra
  • 出版社/メーカー: RCA
  • 発売日: 1997/09/16
  • メディア: CD
  • 購入: 1人 クリック: 1回
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 エヴリン・グレニー(独奏)/レナード・スラットキン/ナショナル管弦楽団による世界初録音盤。スラットキンはシュワントナーの『無限の余韻』という管弦楽作品も録音しており、この盤も完成度の非常に高い演奏です。グレニー女史のダイナミックなソロも充実の極み。

併録のマリンバ独奏の『ヴェロシティーズ』、キング牧師の演説に曲を付した『新たなる時代の黎明』もかっこいい。

おススメの1枚なのですが、残念ながら廃盤……。

 

 

 そしてこちらは吹奏楽(ウィンド・アンサンブル)ための作品集。

※プライムミュージックで視聴できません。

Composer's Collection: Joseph Schwantner

Composer's Collection: Joseph Schwantner

 

 『…そしてどこにも山の姿はない』『暗黒の一千年代』『静められた夜に』『リコイル』と有名曲は網羅されています。演奏もユージン・コーポロン/ノーステキサス・ウィンドによる共感に満ちた充実の演奏。

もちろん打楽器協奏曲も吹奏楽伴奏(ボイセンJrによる編曲)。

 

 

 現代音楽と言うと拒否感を覚える人って結構いるのですが今一度「現代音楽」って何だろうと考えてみると面白いと思います。

確かに私もセリエリズムとかの無機質な現代音楽は苦手なのですが……かといってそれだけが現代音楽の姿ではないのです。言うなれば新作は全て「現代」音楽ですからね(笑) 

とは言え百聞は一聴にしかずです。その一聴が自分の中の固定概念を覆すかもしれませんよ。

 

【Amazonプライムミュージックで聴ける極上クラシック】マーラー:交響曲全集 ティルソン=トーマス

前回に引き続き、アマゾンプライムで聴くことのできるマーラー交響曲を紹介したいと思います。 

Mahler: Symphony No.9

Mahler: Symphony No.9

 

   

Symphony 7 (Hybr)

Symphony 7 (Hybr)

 

 

Symphony No.3 Kindertotenlieder

Symphony No.3 Kindertotenlieder

 

 

Lieder Eines Fahrenden Gesellen Rckert-Lieder Des

Lieder Eines Fahrenden Gesellen Rckert-Lieder Des

 

  マイケル・ティルソン=トーマス指揮、サンフランシスコ交響楽団によるマーラー交響曲全集+歌曲集です。

(全集なのですが個別に配信されていて全て上げるのがめんどくs……もといスペースの問題で聴いて気に入った演奏をリンクで貼りました。)

 

ティルソン=トーマス(通称MTT)はバーンスタインの愛弟子とも言われており、アメリカもの、特段ガーシュウィン演奏の第一人者でありますが、マーラー交響曲録音においても師匠顔負けな素晴らしい録音を残しております。

バーンスタインの演奏は全身全霊を込めた密度の濃い演奏に対してティルソン=トーマスはスタイリッシュな明晰さ中にも劇性を持っていて、それらを自在に引き出す匠の演奏と言いましょうか、バーンスタインの演奏を情念過多と感じる人にはとても聴きやすい演奏だと思います。

 

ちなみにちなみに、交響曲第3番は以前ロンドン交響楽団と録音されたものも存在します。※こちらはプライムミュージックで視聴できません。 

マーラー:交響曲第3番/リュッケルトによる5つの詩

マーラー:交響曲第3番/リュッケルトによる5つの詩

 

 第3番は2度目の録音ということもあってか、深化したサンフランシスコ響での演奏は2004年度のグラミー賞を獲得していたりします。

 

そしてこの全集にはしっかり『大地の歌』も含まれています。が、これも特殊で、テノールバリトンが歌っております。

Das Lied Von Der Erde (Hybr)

Das Lied Von Der Erde (Hybr)

 

 テノールのスチュアート・スケルトンが少々快活すぎる声音かとも思いましたが、表現幅が広くそうした違和感はすぐに拭い去られました。バリトンのトーマス・ハンプソンも明るめな声音ではありますが、この曲の憂いの寂しさを見事に歌い上げています。

 

 

初めてこの一連の録音を見た時はそこまで期待をしていなかったのですが、一聴にしてその魅力の虜になりました。

こうした意想外の出会いがあるのもクラシック音楽の面白さでありますね。

そんな出会いを与えてくれるプライムミュージックという宝の山をこれからも開拓していきたい所存です。

【Amazonプライムミュージックで聴ける極上クラシック】マーラー:交響曲全集 バーンスタイン(DG)

アマゾンのプライム会員には半年ほど前から登録していたのですが、6月にFireタブレットを購入するまで全然触っていなくて最近やっと使い方を覚えました(笑)

特にプライムミュージックとビデオは非常に重宝しています。すごい数のコンテンツが見放題聴き放題ですごい便利です。

 

しかしコンテンツが多すぎるあまりにどれ視聴しようか迷いますね。

そこでアマゾンサーフィンをして私的におすすめしたいプライムミュージックのコンテンツ、主にクラシックを紹介してみたいと思います。

 

Mahler: The Symphonies

Mahler: The Symphonies

 

 最初に紹介したいのはレナード・バーンスタインがDG(ドイツ・グラモフォン)に録音した2度目のマーラー交響曲です。※10番はアダージョのみ。

 

名盤中の名盤でこれがプライムミュージックで聴き放題だと知ったと時はびっくりしました。

最初のマーラー録音は1960年代にSonyに手兵のニューヨーク・フィルハーモニックと録音しました。この2度目の録音はバーンスタイン晩年の80年代にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団アムステルダム・コンセルトヘボウ、ニューヨーク・フィルハーモニックの3つのオーケストラを振り分けて録音しています。

しかし完成前1990年にバーンスタインが亡くなってしまったことを受け、『千人の交響曲』は新規に録音できず、1975年のライブ演奏が含まれています。

(その他にも映像によるライブ全集などもあります。)

 

バーンスタインマーラー演奏は全身全霊、作曲者を自身に投影して万感を音楽に反映した壮絶な演奏であります。

最初の録音は壮年期の力溢れる演奏ですが、2度目の録音はそこに晩年の境地とも言える奥深さに加え、優秀なデジタル録音によるバランスの良さが光る録音です。どちらも素晴らしいのですが、私的にはこの2度目の録音をおすすめしています。

 

更に3つのオーケストラ、特にウィーン・フィルとコンセルトヘボウの名オーケストラによる音の響きはニューヨーク・フィルでは表現しえないものを感じます。特にコンセルトヘボウとの第9番は壮絶です。

9番は上記二つの録音以外にもベルリン・フィルを客演したガチンコのライブ録音とイスラエル・フィルとの深淵なライブ録音もありますので聞き比べるのも面白いですよ。

※この2枚はプライムで視聴できません。 

マーラー:交響曲第9番

マーラー:交響曲第9番

 

 

 

ところで、この交響曲集には『大地の歌』が含まれていません。

実は最初の録音時も『大地の歌』は含まれておらず、後年イスラエル・フィルと録音したものを合わせてまとめて販売しておりました。 

マーラー:交響曲「大地の歌」

マーラー:交響曲「大地の歌」

 

   この盤以外でDGから全集発売された『大地の歌』はDeccaで録音されたものです。本来アルトとテノールによって歌われる本曲ですが、これはテノールバリトンで歌われています。特殊ではありますが名盤と言って差し支えない素晴らしい演奏です。

マーラー:交響曲《大地の歌》

マーラー:交響曲《大地の歌》

 

 ※上記2曲もプライムでは視聴できません。

 

 

 

他にも追々プライムミュージックで聴けるクラシックを紹介していきたいと思います。

それでは素敵なクラシックライフを!

心を罰するのは他人か、自分か、

散歩中に出会った近所の猫さん達。視線が痛い(笑)

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今日もまた拗らせ系の最近感じたことへの備忘録です。

 

仕事のミスで上司に怒られるということはよくあることだと思います。新人さんなら毎日のように怒られている方もいるでしょうし、長期で働いている人でもちょっとしたミスで大惨事に、なんてこともあると思います。

 

いずれにせよ次に同じ轍は踏まないようにする事が一番肝要ですが、それを自分の中でどう消化するかは人それぞれだと思います。

私の場合は次は挽回するぞと思いつつも怒られたことでしょげてしまい、長々と引きずってストレスにしてしまうタイプです。我ながらめんどくさい性分です(笑)

 

そこでふと思ったのが、

ここで自身の心を責め苛んでいるのは何なのか?という問題です

 

心が苛まれるきっかけは他者からの叱責ではありますが、それを心でストレスと感じているのは自分なわけです。

即ち自身の心がそれをストレスと感じなければ、それはストレスにはなりえないということです。

 

故に、自分の心を他人を契機として自分自身で罰しているのです

 

……なんという暴論でしょうか(笑)

 

例えば人間関係で「この人は私を嫌っているかもしれない」と不明確ながら空気でそう感じてしまうことがあるとします。しかしそこでその「嫌われているかもしれない」人と世間話が出来たとします。そこでいい感じに話しが盛り上がって行く内に「実は嫌われているわけではないかも」と思い至ってその人へのマイナスイメージが自分の中で払拭されたとします。

 

しかし他人の本心は分からない訳で、相手が自分に対する感情はマイナスなままかもしれません。

世間話も職場の社交辞令かもしれないのです。

 

もちろんネガティブな心象だけでなく、ポジティブな場合もありますが、それらも含めて他人の本心というのは分からないものです。

そんな本心をぶちまけられる場なんて社会にはそうありませんし、ぶちまけたところで人間関係が良好になるはずもありません。

 

仕事で怒られた時に心の中でマイナスとなるのが「ミスへの自責(自己嫌悪)」と「怒られたことによって他者の信頼を損うことへの恐怖」だと思います。(他にもあるかもしれません。)

 

自己嫌悪は正に自分で自分を罰している例で、自己評価が高い場合に陥りやすいとも聞きます。自己評価が高いと他者からのマイナス評価が堪えるものですが、そんな時はミスした自分を受け入れることが解決策に成りえます。みじめな自分を肯定するのは業腹なものですが、それを含めてこその自分なのです。そんな自分を受け入れてあげるべきなのです。

 

そして信頼を損なう恐怖は外的要因になります。

しかし前記したように他人の心は良くも悪くも分からないものです。

そこでポジティブに考えを改めてみます。例えば、

 

「この人が怒るのは私を買ってくれているからかもしれない。」

「そもそも怒るという行為は体力を使うからな、どうでもいいと思われてたらそんな無駄な力は使うまい。」

「そうだ!決して私を貶めるために怒っているわけじゃないんだ!」

 

といった具合にですかね。

(世の中には自分の社会への不都合やストレス発散のために怒鳴り散らす人もおりますがね……。)

 

そんな感じで思考をポジティブに変換してみると世間の見方が変わってくるような気がします。

基本社会は人間関係の不和で回らなくなるほどやわなものでもありませんから、もし支障が出ているとしたらそれは重大な欠陥ですから早々に辞めるなり何なりして対処した方がいいかもしれません。

 

なんとも都合のいい考え方だろうとも思いますが、結局世界は自分の目でしか観測できないのですから、都合よく考えたって罰は当たりません。むしろ不都合が自信に罰として呵責を背負わせるのだと思います。

 

心を入れ替えるのは簡単なことではありませんが、少しでも考え方を変えて自分で自分を罰することを止めていけば、世の中の見え方が変わってくるかもしれませんね。

2017.9/9 外山雄三/神奈川フィル第332回定期演奏会

神奈川フィルハーモニー管弦楽団のみなとみらいシリーズに行ってきました。

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神奈川フィルは以前から演奏会に出向いていましたが、前回6月のラフマニノフが満員御礼で当日券が取れず(事前に買っとけばよかった……)久々の鑑賞。

 

指揮は日本クラシック界の大御所外山雄三さん。御年なんと86歳!

CDで外山さんの名前はよく見かけており、いくつか所持していますが生で聴くのは初めて。オーケストラを前に登檀した姿は小柄なおじいちゃんでありながら70人強の集団を率いる勇壮な指揮官でありました。

いつまでも最前線で活躍して欲しいです。

 

 

1曲目は、

外山雄三:オーケストラのための玄奧

外山さん自身の作曲で、なんと2015年に諏訪交響楽団創立90年を祝して委嘱された近作です。今も尚精力的に作曲をなさっているそうです。

外山さんの作品というと『管弦楽のためのラプソディ』や『まつら』に通じるように日本民謡を取り入れた民族色の濃い作品が多く、この作品も例外ではありません。が、この曲は渋面な日本要素が反映されてるように思います。

『玄奧』には「奥深い、測り知れない」という意味があるそうです。雅楽の点描的なオーケストレーションに日本屋敷の襖障子で区切られた空間を広げていくような奥行きのある響き。『ラプソディ』のような明快さやポピュラリティはありませんが、作曲者の中の「日本」が86年の歳月を経て描き出されたような趣を感じます。

音階やリズムだけが音楽のナショナリティではないということに気付かされる音楽でした。

 

(そう言えば以前にLFJにて井上道義さんが伊福部昭を演奏した時にプレトークで、「日本人は農耕民族で、足を泥に浸しながら作業しておりそれが民謡にも影響されている(意訳)」と申していたのを思い出しました。)

 

 

2曲目、

シューベルト交響曲第7番「未完成」

シューベルトの作風の転機となる筈だった作品ですが、3楽章の途中で放置され、題が示すように完成されることのなかった交響曲です。

8番とナンバリングされることもありますがプログラムに則って7番と表記します。この交響曲の番号と言うのは時代や後年の研究によって変更されることがあるんですね。

 

外山さんの演奏は要所要所でアンサンブル決めるというよりは自然な流れを意識して弛緩しないようにしているように感じました。そのためアンサンブルの締まりはありませんでしたが、曲本来の美感を得られる演奏でした。

 

 

3曲目、

プロコフィエフ:交響曲第5番

今回のメイン。モダニストとしてロシアを発ち世界中を飛び回っていた作曲家、ピアニストのプロコフィエフ社会主義国家となった母国へ戻り、(※その間色々あって)第2次世界大戦時に書かれた、所謂「戦争交響曲」です。

交響曲の定型である4楽章制、ソナタ形式を取り入れるなど形式的に作られた交響曲で、彼の『古典交響曲』同様の古典回帰ともいえる作風だが、モダニスト時代の前衛手法も使われております。打楽器の用法なんかもその時代の趣がありますし、和声もなんだかヒンデミットっぽい。

 

ソ連社会主義的リアリズムと呼ばれる芸術政策があり、それに反した芸術は悉く弾圧され、それはプロコフィエフの音楽も例外ではなかった。そのため作風転向を余儀なくされた作曲家が数多存在する。

 

この曲もシューベルト同様、自然な流れで弛緩しないものの、この曲では締まりのなさを感じてしまった。プロコフィエフでこうだと如何なものかとも思ったが、頂点の盛り上がりの凄まじさたるや、その印象を払拭するのに足る強烈さでありました。

 

演奏者ごとの解釈がクラシック音楽の面白さなんですよね。

今日も良い演奏を聴かせて貰えました。また次の演奏会(リヒャルト・シュトラウスの『英雄の生涯』だった筈)にも伺おうと思います。

 

 

 

 

 演奏会に赴いて音楽を聴いている時は思考が冴えます。音楽を聴く幸福感に合わせて、新しい思考が整理されるので終演後はとても頭がすっきりします。

このブログを書くきっかけとなった「精神的な自由」が一番感じられる瞬間でもあります。

 

最近どうにも意志がぶれぶれで記事の内容もジャンルも手探り状態。やはり一つ腰を据えて書ける分野を作らないとと思ったり……。