神奈川フィルハーモニー管弦楽団のみなとみらいシリーズに行ってきました。
神奈川フィルは以前から演奏会に出向いていましたが、前回6月のラフマニノフが満員御礼で当日券が取れず(事前に買っとけばよかった……)久々の鑑賞。
指揮は日本クラシック界の大御所外山雄三さん。御年なんと86歳!
CDで外山さんの名前はよく見かけており、いくつか所持していますが生で聴くのは初めて。オーケストラを前に登檀した姿は小柄なおじいちゃんでありながら70人強の集団を率いる勇壮な指揮官でありました。
いつまでも最前線で活躍して欲しいです。
1曲目は、
外山雄三:オーケストラのための玄奧
外山さん自身の作曲で、なんと2015年に諏訪交響楽団創立90年を祝して委嘱された近作です。今も尚精力的に作曲をなさっているそうです。
外山さんの作品というと『管弦楽のためのラプソディ』や『まつら』に通じるように日本民謡を取り入れた民族色の濃い作品が多く、この作品も例外ではありません。が、この曲は渋面な日本要素が反映されてるように思います。
『玄奧』には「奥深い、測り知れない」という意味があるそうです。雅楽の点描的なオーケストレーションに日本屋敷の襖障子で区切られた空間を広げていくような奥行きのある響き。『ラプソディ』のような明快さやポピュラリティはありませんが、作曲者の中の「日本」が86年の歳月を経て描き出されたような趣を感じます。
音階やリズムだけが音楽のナショナリティではないということに気付かされる音楽でした。
(そう言えば以前にLFJにて井上道義さんが伊福部昭を演奏した時にプレトークで、「日本人は農耕民族で、足を泥に浸しながら作業しておりそれが民謡にも影響されている(意訳)」と申していたのを思い出しました。)
2曲目、
シューベルトの作風の転機となる筈だった作品ですが、3楽章の途中で放置され、題が示すように完成されることのなかった交響曲です。
8番とナンバリングされることもありますがプログラムに則って7番と表記します。この交響曲の番号と言うのは時代や後年の研究によって変更されることがあるんですね。
外山さんの演奏は要所要所でアンサンブル決めるというよりは自然な流れを意識して弛緩しないようにしているように感じました。そのためアンサンブルの締まりはありませんでしたが、曲本来の美感を得られる演奏でした。
3曲目、
今回のメイン。モダニストとしてロシアを発ち世界中を飛び回っていた作曲家、ピアニストのプロコフィエフが社会主義国家となった母国へ戻り、(※その間色々あって)第2次世界大戦時に書かれた、所謂「戦争交響曲」です。
交響曲の定型である4楽章制、ソナタ形式を取り入れるなど形式的に作られた交響曲で、彼の『古典交響曲』同様の古典回帰ともいえる作風だが、モダニスト時代の前衛手法も使われております。打楽器の用法なんかもその時代の趣がありますし、和声もなんだかヒンデミットっぽい。
※ソ連は社会主義的リアリズムと呼ばれる芸術政策があり、それに反した芸術は悉く弾圧され、それはプロコフィエフの音楽も例外ではなかった。そのため作風転向を余儀なくされた作曲家が数多存在する。
この曲もシューベルト同様、自然な流れで弛緩しないものの、この曲では締まりのなさを感じてしまった。プロコフィエフでこうだと如何なものかとも思ったが、頂点の盛り上がりの凄まじさたるや、その印象を払拭するのに足る強烈さでありました。
演奏者ごとの解釈がクラシック音楽の面白さなんですよね。
今日も良い演奏を聴かせて貰えました。また次の演奏会(リヒャルト・シュトラウスの『英雄の生涯』だった筈)にも伺おうと思います。
演奏会に赴いて音楽を聴いている時は思考が冴えます。音楽を聴く幸福感に合わせて、新しい思考が整理されるので終演後はとても頭がすっきりします。
このブログを書くきっかけとなった「精神的な自由」が一番感じられる瞬間でもあります。
最近どうにも意志がぶれぶれで記事の内容もジャンルも手探り状態。やはり一つ腰を据えて書ける分野を作らないとと思ったり……。