レトロゲームについて~スーパーファミコン
最近レトロゲームをやれる機器が増えてきましたね。
ニンテンドーeショップで購入できるバーチャルコンソールはWiiとWiiUだけでなく、2016年にNew3DSでスーパーファミコンのゲームが出来るようになり、今年の夏にNEW2DSLLが発売して更にプレイできる層が増えていきました。
(2017年7月13日よりNew3DSは製造中止になってしまい、現在はNew3DSLLかNew2DSLLの二機種です。)
更にニンテンドークラシックス・ミニ・ファミコンや、2017年10月にはミニ・スーパーファミコンが発売されますね。
他にも、ニンテンドー製ではありませんが、本体の代替として昔のゲームが出来る本体もあります。
(SFC互換機) エスエフシーコンパクトHDMI【SFC COMPACT HDMI 】
- 出版社/メーカー: コロンバスサークル
- 発売日: 2017/09/30
- メディア: Video Game
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レトロフリーク (レトロゲーム互換機) (コントローラーアダプターセット)
- 出版社/メーカー: サイバーガジェット
- 発売日: 2015/10/31
- メディア: Video Game
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特にレトロフリークはプレイできる機種の豊富さだけでなく吸出しによるデータ管理によってすごくコンパクトにたくさんのゲームが遊べます。(※そのデータはレトロフリーク上のみでプレイできます。)
カセットはセーブデータが消えやすいのですがレトロフリークでデータにしておけばそのリスクが激減します。今まで何度データが飛んで泣かされたことか……経験者なら同意頂けると思います(笑)
その為私はレトロフリークを重宝しています。
私の初めてのゲーム体験がスーパーファミコン(以下スーファミ)でとても思い入れがあるのですが、あまりたくさんのタイトルをプレイした記憶がありません。
それもそのはずで、当時のゲームカセットって今と比べて高価なんですね。
一本8000円とか、中には10000円越えのものもありました。
そんなにたくさん買い与えられるものでもないですよね。
しかし現在は中古カセットが安く購入出来るだけでなく上記のバーチャルコンソールでは基本1000円以下で持ち運びも出来るようになりました。
当時プレイできなかったゲームが廉価でたくさんプレイできる……いい時代ですね……。
そんな時代になって私もスーファミゲームに再ハマりしてバーチャルコンソール漁りだけでなくハードオフや中古ゲーム店でカセットを漁り始めるようになりました。
懐かしいタイトルを発見するたびにノスタルジーが大爆発です。(笑)
データ配信も便利ですが、中古店で見つける楽しさもまた一興です。
それにまだまだバーチャルコンソールで登場していないタイトルや、権利の関係で再販出来ないものもあるのでまるで宝探ししているみたいですよ。
童心に戻れる、そんな時間も大切だと思う今日この頃でございます。
日々の不満と『人間失格』
どうも。
上司の舌打ちが自分に向いている気がしてならない自意識過剰で被害妄想なアマデウスキーです。
そんなことされるようなことをした覚えはないが、もしかしてあれがまずかった?と答えの出ない疑問で日々悶々としてしまう性格です……問題があるならその場で指摘して欲しいものだ。
そんな生き辛い性分を背負い込み日々を過ごしていますが、そうした時にいつも思い出す言葉があります。
「ただ、一さいは過ぎて行きます。」
- 作者: 太宰治
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1988/05/16
- メディア: 文庫
- 購入: 2人 クリック: 5回
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主人公大庭葉蔵の疑心と道化、破滅的な人生を振り返った時の言葉ですが、そんな絶望の中にあって時間も世間も、全ては等しく流れていく虚無的な無常観を表したものに思います。
非常にマイナスな響きを伴った言葉ではありますが、この言葉によって私の心の中が換気されるような心地を得ます。
境遇の不幸や、やりきれない感情が半ば諦めのような感じで清浄に吹かれて行きます……うーむ、ネガティブ(笑)
しかし、マイナスであることを受容することによって自身を認識し、自分の在るべき場所、求めるものが再発見出来るかもしれません。
どこかで誰かが結婚しても、
どこかで誰かが亡くなっても、
どこかで誰かの命が救われても、
どこかで誰かの夢が潰えても、
幸福だろうと不幸だろうと、
「ただ、一さいは過ぎて行きます」。
自由と怠惰について
私は散歩が好きでよく地元を歩き回っているのですが、そこで色々な出会いがあったりします。
散歩中に出会った猫さんです。
よく眠っております。
それにしても羨ましい眠りっぷりですね。
私も幾度となく猫みたいに自由に生きたいと思ったものです(笑)
しかし自由と怠惰は違うものなんですね。
詩人ゲーテは、
「全ての人間が自由を得るや、その欠点を発揮する。強いものは度を超し、弱いものは怠ける。」
と言っております。
怠惰は自由によってもたらされるものであり、自由の本質ではないのです。
この言葉を聞いた時、妙に腑に落ちたものです。
やりたいこともやらなければいけないこともある休日、なのにそれをどんどん先伸ばしにしていき結果怠けてしまった経験、あると思います。
自身を弱いと認めることに業腹ではありますが……そういったことも承認し受け入れる自己受容の精神もまた自由への一歩なんだと思います。
前書き~自由について
この度ブログを開設しました、アマデウスキーと申します。
ブログを通して自分の事と、好きなクラシック音楽や小説、マンガ、レトロゲームについて書いていければと思い開設しました。
また、マンガの同人活動をしておりオリジナルマンガも描いているのでこの場が適切かは分かりませんがそうした作品の発信も行えたらと思っているのでよろしくお願いします。
挨拶を終える前に一つ自己主張をさせていただきます。
……このブログを始めるきっかけに「自由」について考える日々がありました。
私は過去の経験から(個々人との信頼関係を除いて)人間不信であり組織とか集団といったものが苦手です。
そんな社会に対する不満が学生の頃から、社会人になった今も尚、日に日に自由への渇望が募っていきました。(尾崎豊がマイフェイバリットだった時期もあります(笑))
自由を渇望する日々を送っていましたがそこで「自由」とは何ぞや?という疑問が生じました。
ひとえに自由と言っても様々な自由があります。肉体的な自由、時間的な自由、人間関係の自由……自由とは人の数、穿った言い方をすれば罪の数程あるような気がします。
そこで私の再発見した自由が「創作、芸術に対峙する時の精神的な自由」というものでした。
創る側も受け手側も、創作、芸術に触れることによってあらゆる感情が芽生えます。そこに芽生えた感情は評論や他人の意見に左右されていない自身の感情であり、そこには自身の社会に表明出来ずにいた精神的な自由が存在するのです。
もちろん創作における全てが自由であるとは言いませんし、歴史においても創作、芸術における不自由があるのは確かです。
しかしその本質において精神的自由が己に纏った社会からの不自由を開放して、肩の荷を下ろしてくれるものだと実感しています。
このブログの題は最も自由だった小学生の頃に行っていたクラスメイトとの創作活動の時に作られた単語であり、私がコミティア等で同人活動をしている時のサークル名であります。
非常に個人的でありますがこの単語は私の中で一つ自由の象徴となっています。
そのノスタルジーとも未来の希望とも言い難い題を背に自由を求め、精神的自由を謳歌するためにこのブログが生まれました。
……と長々書きましたがこんなものは結局後付けに過ぎないのです(笑)。
そんなわけで自由気ままに書き綴っていきたいと思いますので改めてよろしくお願い致します。