七福蕎麦で会おう

自由を愛する自由人の音楽、小説といった創作やレトロゲームへの愛を綴るブログ。

心を罰するのは他人か、自分か、

散歩中に出会った近所の猫さん達。視線が痛い(笑)

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今日もまた拗らせ系の最近感じたことへの備忘録です。

 

仕事のミスで上司に怒られるということはよくあることだと思います。新人さんなら毎日のように怒られている方もいるでしょうし、長期で働いている人でもちょっとしたミスで大惨事に、なんてこともあると思います。

 

いずれにせよ次に同じ轍は踏まないようにする事が一番肝要ですが、それを自分の中でどう消化するかは人それぞれだと思います。

私の場合は次は挽回するぞと思いつつも怒られたことでしょげてしまい、長々と引きずってストレスにしてしまうタイプです。我ながらめんどくさい性分です(笑)

 

そこでふと思ったのが、

ここで自身の心を責め苛んでいるのは何なのか?という問題です

 

心が苛まれるきっかけは他者からの叱責ではありますが、それを心でストレスと感じているのは自分なわけです。

即ち自身の心がそれをストレスと感じなければ、それはストレスにはなりえないということです。

 

故に、自分の心を他人を契機として自分自身で罰しているのです

 

……なんという暴論でしょうか(笑)

 

例えば人間関係で「この人は私を嫌っているかもしれない」と不明確ながら空気でそう感じてしまうことがあるとします。しかしそこでその「嫌われているかもしれない」人と世間話が出来たとします。そこでいい感じに話しが盛り上がって行く内に「実は嫌われているわけではないかも」と思い至ってその人へのマイナスイメージが自分の中で払拭されたとします。

 

しかし他人の本心は分からない訳で、相手が自分に対する感情はマイナスなままかもしれません。

世間話も職場の社交辞令かもしれないのです。

 

もちろんネガティブな心象だけでなく、ポジティブな場合もありますが、それらも含めて他人の本心というのは分からないものです。

そんな本心をぶちまけられる場なんて社会にはそうありませんし、ぶちまけたところで人間関係が良好になるはずもありません。

 

仕事で怒られた時に心の中でマイナスとなるのが「ミスへの自責(自己嫌悪)」と「怒られたことによって他者の信頼を損うことへの恐怖」だと思います。(他にもあるかもしれません。)

 

自己嫌悪は正に自分で自分を罰している例で、自己評価が高い場合に陥りやすいとも聞きます。自己評価が高いと他者からのマイナス評価が堪えるものですが、そんな時はミスした自分を受け入れることが解決策に成りえます。みじめな自分を肯定するのは業腹なものですが、それを含めてこその自分なのです。そんな自分を受け入れてあげるべきなのです。

 

そして信頼を損なう恐怖は外的要因になります。

しかし前記したように他人の心は良くも悪くも分からないものです。

そこでポジティブに考えを改めてみます。例えば、

 

「この人が怒るのは私を買ってくれているからかもしれない。」

「そもそも怒るという行為は体力を使うからな、どうでもいいと思われてたらそんな無駄な力は使うまい。」

「そうだ!決して私を貶めるために怒っているわけじゃないんだ!」

 

といった具合にですかね。

(世の中には自分の社会への不都合やストレス発散のために怒鳴り散らす人もおりますがね……。)

 

そんな感じで思考をポジティブに変換してみると世間の見方が変わってくるような気がします。

基本社会は人間関係の不和で回らなくなるほどやわなものでもありませんから、もし支障が出ているとしたらそれは重大な欠陥ですから早々に辞めるなり何なりして対処した方がいいかもしれません。

 

なんとも都合のいい考え方だろうとも思いますが、結局世界は自分の目でしか観測できないのですから、都合よく考えたって罰は当たりません。むしろ不都合が自信に罰として呵責を背負わせるのだと思います。

 

心を入れ替えるのは簡単なことではありませんが、少しでも考え方を変えて自分で自分を罰することを止めていけば、世の中の見え方が変わってくるかもしれませんね。