七福蕎麦で会おう

自由を愛する自由人の音楽、小説といった創作やレトロゲームへの愛を綴るブログ。

【Amazonプライムミュージックで聴ける極上クラシック】マーラー:交響曲全集 バーンスタイン(DG)

アマゾンのプライム会員には半年ほど前から登録していたのですが、6月にFireタブレットを購入するまで全然触っていなくて最近やっと使い方を覚えました(笑)

特にプライムミュージックとビデオは非常に重宝しています。すごい数のコンテンツが見放題聴き放題ですごい便利です。

 

しかしコンテンツが多すぎるあまりにどれ視聴しようか迷いますね。

そこでアマゾンサーフィンをして私的におすすめしたいプライムミュージックのコンテンツ、主にクラシックを紹介してみたいと思います。

 

Mahler: The Symphonies

Mahler: The Symphonies

 

 最初に紹介したいのはレナード・バーンスタインがDG(ドイツ・グラモフォン)に録音した2度目のマーラー交響曲です。※10番はアダージョのみ。

 

名盤中の名盤でこれがプライムミュージックで聴き放題だと知ったと時はびっくりしました。

最初のマーラー録音は1960年代にSonyに手兵のニューヨーク・フィルハーモニックと録音しました。この2度目の録音はバーンスタイン晩年の80年代にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団アムステルダム・コンセルトヘボウ、ニューヨーク・フィルハーモニックの3つのオーケストラを振り分けて録音しています。

しかし完成前1990年にバーンスタインが亡くなってしまったことを受け、『千人の交響曲』は新規に録音できず、1975年のライブ演奏が含まれています。

(その他にも映像によるライブ全集などもあります。)

 

バーンスタインマーラー演奏は全身全霊、作曲者を自身に投影して万感を音楽に反映した壮絶な演奏であります。

最初の録音は壮年期の力溢れる演奏ですが、2度目の録音はそこに晩年の境地とも言える奥深さに加え、優秀なデジタル録音によるバランスの良さが光る録音です。どちらも素晴らしいのですが、私的にはこの2度目の録音をおすすめしています。

 

更に3つのオーケストラ、特にウィーン・フィルとコンセルトヘボウの名オーケストラによる音の響きはニューヨーク・フィルでは表現しえないものを感じます。特にコンセルトヘボウとの第9番は壮絶です。

9番は上記二つの録音以外にもベルリン・フィルを客演したガチンコのライブ録音とイスラエル・フィルとの深淵なライブ録音もありますので聞き比べるのも面白いですよ。

※この2枚はプライムで視聴できません。 

マーラー:交響曲第9番

マーラー:交響曲第9番

 

 

 

ところで、この交響曲集には『大地の歌』が含まれていません。

実は最初の録音時も『大地の歌』は含まれておらず、後年イスラエル・フィルと録音したものを合わせてまとめて販売しておりました。 

マーラー:交響曲「大地の歌」

マーラー:交響曲「大地の歌」

 

   この盤以外でDGから全集発売された『大地の歌』はDeccaで録音されたものです。本来アルトとテノールによって歌われる本曲ですが、これはテノールバリトンで歌われています。特殊ではありますが名盤と言って差し支えない素晴らしい演奏です。

マーラー:交響曲《大地の歌》

マーラー:交響曲《大地の歌》

 

 ※上記2曲もプライムでは視聴できません。

 

 

 

他にも追々プライムミュージックで聴けるクラシックを紹介していきたいと思います。

それでは素敵なクラシックライフを!

心を罰するのは他人か、自分か、

散歩中に出会った近所の猫さん達。視線が痛い(笑)

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今日もまた拗らせ系の最近感じたことへの備忘録です。

 

仕事のミスで上司に怒られるということはよくあることだと思います。新人さんなら毎日のように怒られている方もいるでしょうし、長期で働いている人でもちょっとしたミスで大惨事に、なんてこともあると思います。

 

いずれにせよ次に同じ轍は踏まないようにする事が一番肝要ですが、それを自分の中でどう消化するかは人それぞれだと思います。

私の場合は次は挽回するぞと思いつつも怒られたことでしょげてしまい、長々と引きずってストレスにしてしまうタイプです。我ながらめんどくさい性分です(笑)

 

そこでふと思ったのが、

ここで自身の心を責め苛んでいるのは何なのか?という問題です

 

心が苛まれるきっかけは他者からの叱責ではありますが、それを心でストレスと感じているのは自分なわけです。

即ち自身の心がそれをストレスと感じなければ、それはストレスにはなりえないということです。

 

故に、自分の心を他人を契機として自分自身で罰しているのです

 

……なんという暴論でしょうか(笑)

 

例えば人間関係で「この人は私を嫌っているかもしれない」と不明確ながら空気でそう感じてしまうことがあるとします。しかしそこでその「嫌われているかもしれない」人と世間話が出来たとします。そこでいい感じに話しが盛り上がって行く内に「実は嫌われているわけではないかも」と思い至ってその人へのマイナスイメージが自分の中で払拭されたとします。

 

しかし他人の本心は分からない訳で、相手が自分に対する感情はマイナスなままかもしれません。

世間話も職場の社交辞令かもしれないのです。

 

もちろんネガティブな心象だけでなく、ポジティブな場合もありますが、それらも含めて他人の本心というのは分からないものです。

そんな本心をぶちまけられる場なんて社会にはそうありませんし、ぶちまけたところで人間関係が良好になるはずもありません。

 

仕事で怒られた時に心の中でマイナスとなるのが「ミスへの自責(自己嫌悪)」と「怒られたことによって他者の信頼を損うことへの恐怖」だと思います。(他にもあるかもしれません。)

 

自己嫌悪は正に自分で自分を罰している例で、自己評価が高い場合に陥りやすいとも聞きます。自己評価が高いと他者からのマイナス評価が堪えるものですが、そんな時はミスした自分を受け入れることが解決策に成りえます。みじめな自分を肯定するのは業腹なものですが、それを含めてこその自分なのです。そんな自分を受け入れてあげるべきなのです。

 

そして信頼を損なう恐怖は外的要因になります。

しかし前記したように他人の心は良くも悪くも分からないものです。

そこでポジティブに考えを改めてみます。例えば、

 

「この人が怒るのは私を買ってくれているからかもしれない。」

「そもそも怒るという行為は体力を使うからな、どうでもいいと思われてたらそんな無駄な力は使うまい。」

「そうだ!決して私を貶めるために怒っているわけじゃないんだ!」

 

といった具合にですかね。

(世の中には自分の社会への不都合やストレス発散のために怒鳴り散らす人もおりますがね……。)

 

そんな感じで思考をポジティブに変換してみると世間の見方が変わってくるような気がします。

基本社会は人間関係の不和で回らなくなるほどやわなものでもありませんから、もし支障が出ているとしたらそれは重大な欠陥ですから早々に辞めるなり何なりして対処した方がいいかもしれません。

 

なんとも都合のいい考え方だろうとも思いますが、結局世界は自分の目でしか観測できないのですから、都合よく考えたって罰は当たりません。むしろ不都合が自信に罰として呵責を背負わせるのだと思います。

 

心を入れ替えるのは簡単なことではありませんが、少しでも考え方を変えて自分で自分を罰することを止めていけば、世の中の見え方が変わってくるかもしれませんね。

2017.9/9 外山雄三/神奈川フィル第332回定期演奏会

神奈川フィルハーモニー管弦楽団のみなとみらいシリーズに行ってきました。

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神奈川フィルは以前から演奏会に出向いていましたが、前回6月のラフマニノフが満員御礼で当日券が取れず(事前に買っとけばよかった……)久々の鑑賞。

 

指揮は日本クラシック界の大御所外山雄三さん。御年なんと86歳!

CDで外山さんの名前はよく見かけており、いくつか所持していますが生で聴くのは初めて。オーケストラを前に登檀した姿は小柄なおじいちゃんでありながら70人強の集団を率いる勇壮な指揮官でありました。

いつまでも最前線で活躍して欲しいです。

 

 

1曲目は、

外山雄三:オーケストラのための玄奧

外山さん自身の作曲で、なんと2015年に諏訪交響楽団創立90年を祝して委嘱された近作です。今も尚精力的に作曲をなさっているそうです。

外山さんの作品というと『管弦楽のためのラプソディ』や『まつら』に通じるように日本民謡を取り入れた民族色の濃い作品が多く、この作品も例外ではありません。が、この曲は渋面な日本要素が反映されてるように思います。

『玄奧』には「奥深い、測り知れない」という意味があるそうです。雅楽の点描的なオーケストレーションに日本屋敷の襖障子で区切られた空間を広げていくような奥行きのある響き。『ラプソディ』のような明快さやポピュラリティはありませんが、作曲者の中の「日本」が86年の歳月を経て描き出されたような趣を感じます。

音階やリズムだけが音楽のナショナリティではないということに気付かされる音楽でした。

 

(そう言えば以前にLFJにて井上道義さんが伊福部昭を演奏した時にプレトークで、「日本人は農耕民族で、足を泥に浸しながら作業しておりそれが民謡にも影響されている(意訳)」と申していたのを思い出しました。)

 

 

2曲目、

シューベルト交響曲第7番「未完成」

シューベルトの作風の転機となる筈だった作品ですが、3楽章の途中で放置され、題が示すように完成されることのなかった交響曲です。

8番とナンバリングされることもありますがプログラムに則って7番と表記します。この交響曲の番号と言うのは時代や後年の研究によって変更されることがあるんですね。

 

外山さんの演奏は要所要所でアンサンブル決めるというよりは自然な流れを意識して弛緩しないようにしているように感じました。そのためアンサンブルの締まりはありませんでしたが、曲本来の美感を得られる演奏でした。

 

 

3曲目、

プロコフィエフ:交響曲第5番

今回のメイン。モダニストとしてロシアを発ち世界中を飛び回っていた作曲家、ピアニストのプロコフィエフ社会主義国家となった母国へ戻り、(※その間色々あって)第2次世界大戦時に書かれた、所謂「戦争交響曲」です。

交響曲の定型である4楽章制、ソナタ形式を取り入れるなど形式的に作られた交響曲で、彼の『古典交響曲』同様の古典回帰ともいえる作風だが、モダニスト時代の前衛手法も使われております。打楽器の用法なんかもその時代の趣がありますし、和声もなんだかヒンデミットっぽい。

 

ソ連社会主義的リアリズムと呼ばれる芸術政策があり、それに反した芸術は悉く弾圧され、それはプロコフィエフの音楽も例外ではなかった。そのため作風転向を余儀なくされた作曲家が数多存在する。

 

この曲もシューベルト同様、自然な流れで弛緩しないものの、この曲では締まりのなさを感じてしまった。プロコフィエフでこうだと如何なものかとも思ったが、頂点の盛り上がりの凄まじさたるや、その印象を払拭するのに足る強烈さでありました。

 

演奏者ごとの解釈がクラシック音楽の面白さなんですよね。

今日も良い演奏を聴かせて貰えました。また次の演奏会(リヒャルト・シュトラウスの『英雄の生涯』だった筈)にも伺おうと思います。

 

 

 

 

 演奏会に赴いて音楽を聴いている時は思考が冴えます。音楽を聴く幸福感に合わせて、新しい思考が整理されるので終演後はとても頭がすっきりします。

このブログを書くきっかけとなった「精神的な自由」が一番感じられる瞬間でもあります。

 

最近どうにも意志がぶれぶれで記事の内容もジャンルも手探り状態。やはり一つ腰を据えて書ける分野を作らないとと思ったり……。

レトロゲームについて~スーパーファミコン

最近レトロゲームをやれる機器が増えてきましたね。

 

ニンテンドーeショップで購入できるバーチャルコンソールWiiWiiUだけでなく、2016年にNew3DSスーパーファミコンのゲームが出来るようになり、今年の夏にNEW2DSLLが発売して更にプレイできる層が増えていきました。

(2017年7月13日よりNew3DSは製造中止になってしまい、現在はNew3DSLLかNew2DSLLの二機種です。)

   

  

Newニンテンドー3DS LL パールホワイト

Newニンテンドー3DS LL パールホワイト

 

  

Newニンテンドー2DS LL ブラック×ターコイズ
 

  

更にニンテンドーラシックス・ミニ・ファミコンや、2017年10月にはミニ・スーパーファミコンが発売されますね。

 

他にも、ニンテンドー製ではありませんが、本体の代替として昔のゲームが出来る本体もあります。

 

(SFC互換機) エスエフシーコンパクトHDMI【SFC COMPACT HDMI 】

(SFC互換機) エスエフシーコンパクトHDMI【SFC COMPACT HDMI 】

 

 

 

 特にレトロフリークはプレイできる機種の豊富さだけでなく吸出しによるデータ管理によってすごくコンパクトにたくさんのゲームが遊べます。(※そのデータはレトロフリーク上のみでプレイできます。)

カセットはセーブデータが消えやすいのですがレトロフリークでデータにしておけばそのリスクが激減します。今まで何度データが飛んで泣かされたことか……経験者なら同意頂けると思います(笑)

その為私はレトロフリークを重宝しています。

 

 

 

私の初めてのゲーム体験がスーパーファミコン(以下スーファミ)でとても思い入れがあるのですが、あまりたくさんのタイトルをプレイした記憶がありません。

 

それもそのはずで、当時のゲームカセットって今と比べて高価なんですね。

一本8000円とか、中には10000円越えのものもありました。

 

そんなにたくさん買い与えられるものでもないですよね。

 

しかし現在は中古カセットが安く購入出来るだけでなく上記のバーチャルコンソールでは基本1000円以下で持ち運びも出来るようになりました。

当時プレイできなかったゲームが廉価でたくさんプレイできる……いい時代ですね……。

 

そんな時代になって私もスーファミゲームに再ハマりしてバーチャルコンソール漁りだけでなくハードオフや中古ゲーム店でカセットを漁り始めるようになりました。

懐かしいタイトルを発見するたびにノスタルジーが大爆発です。(笑)

 

データ配信も便利ですが、中古店で見つける楽しさもまた一興です。

 

それにまだまだバーチャルコンソールで登場していないタイトルや、権利の関係で再販出来ないものもあるのでまるで宝探ししているみたいですよ。

 

童心に戻れる、そんな時間も大切だと思う今日この頃でございます。

日々の不満と『人間失格』

どうも。
上司の舌打ちが自分に向いている気がしてならない自意識過剰で被害妄想なアマデウスキーです。

そんなことされるようなことをした覚えはないが、もしかしてあれがまずかった?と答えの出ない疑問で日々悶々としてしまう性格です……問題があるならその場で指摘して欲しいものだ。


そんな生き辛い性分を背負い込み日々を過ごしていますが、そうした時にいつも思い出す言葉があります。



「ただ、一さいは過ぎて行きます。」

人間失格、グッド・バイ 他一篇 (岩波文庫)

人間失格、グッド・バイ 他一篇 (岩波文庫)

太宰治の名作『人間失格』の終局を飾る言葉です。

主人公大庭葉蔵の疑心と道化、破滅的な人生を振り返った時の言葉ですが、そんな絶望の中にあって時間も世間も、全ては等しく流れていく虚無的な無常観を表したものに思います。

非常にマイナスな響きを伴った言葉ではありますが、この言葉によって私の心の中が換気されるような心地を得ます。
境遇の不幸や、やりきれない感情が半ば諦めのような感じで清浄に吹かれて行きます……うーむ、ネガティブ(笑)

しかし、マイナスであることを受容することによって自身を認識し、自分の在るべき場所、求めるものが再発見出来るかもしれません。



どこかで誰かが結婚しても、

どこかで誰かが亡くなっても、

どこかで誰かの命が救われても、

どこかで誰かの夢が潰えても、

幸福だろうと不幸だろうと、

「ただ、一さいは過ぎて行きます」。

自由と怠惰について

私は散歩が好きでよく地元を歩き回っているのですが、そこで色々な出会いがあったりします。



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散歩中に出会った猫さんです。



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よく眠っております。



それにしても羨ましい眠りっぷりですね。
私も幾度となく猫みたいに自由に生きたいと思ったものです(笑)


しかし自由と怠惰は違うものなんですね。


詩人ゲーテは、

「全ての人間が自由を得るや、その欠点を発揮する。強いものは度を超し、弱いものは怠ける。」

と言っております。


怠惰は自由によってもたらされるものであり、自由の本質ではないのです。

この言葉を聞いた時、妙に腑に落ちたものです。
やりたいこともやらなければいけないこともある休日、なのにそれをどんどん先伸ばしにしていき結果怠けてしまった経験、あると思います。


自身を弱いと認めることに業腹ではありますが……そういったことも承認し受け入れる自己受容の精神もまた自由への一歩なんだと思います。

前書き~自由について

この度ブログを開設しました、アマデウスキーと申します。

 

ブログを通して自分の事と、好きなクラシック音楽や小説、マンガ、レトロゲームについて書いていければと思い開設しました。

また、マンガの同人活動をしておりオリジナルマンガも描いているのでこの場が適切かは分かりませんがそうした作品の発信も行えたらと思っているのでよろしくお願いします。

 

 

 

 

挨拶を終える前に一つ自己主張をさせていただきます。

 

……このブログを始めるきっかけに「自由」について考える日々がありました。

私は過去の経験から(個々人との信頼関係を除いて)人間不信であり組織とか集団といったものが苦手です。

 

そんな社会に対する不満が学生の頃から、社会人になった今も尚、日に日に自由への渇望が募っていきました。(尾崎豊がマイフェイバリットだった時期もあります(笑))

 

自由を渇望する日々を送っていましたがそこで「自由」とは何ぞや?という疑問が生じました。

ひとえに自由と言っても様々な自由があります。肉体的な自由、時間的な自由、人間関係の自由……自由とは人の数、穿った言い方をすれば罪の数程あるような気がします。

 

 

そこで私の再発見した自由が「創作、芸術に対峙する時の精神的な自由」というものでした。

 

創る側も受け手側も、創作、芸術に触れることによってあらゆる感情が芽生えます。そこに芽生えた感情は評論や他人の意見に左右されていない自身の感情であり、そこには自身の社会に表明出来ずにいた精神的な自由が存在するのです。

 

もちろん創作における全てが自由であるとは言いませんし、歴史においても創作、芸術における不自由があるのは確かです。

 

しかしその本質において精神的自由が己に纏った社会からの不自由を開放して、肩の荷を下ろしてくれるものだと実感しています。

 

このブログの題は最も自由だった小学生の頃に行っていたクラスメイトとの創作活動の時に作られた単語であり、私がコミティア等で同人活動をしている時のサークル名であります。

非常に個人的でありますがこの単語は私の中で一つ自由の象徴となっています。 

 

そのノスタルジーとも未来の希望とも言い難い題を背に自由を求め、精神的自由を謳歌するためにこのブログが生まれました。 

 

……と長々書きましたがこんなものは結局後付けに過ぎないのです(笑)。

 

 

 

そんなわけで自由気ままに書き綴っていきたいと思いますので改めてよろしくお願い致します。